LOGINベルナール分家の帳簿は、最初から王宮に提出されていたわけではなかった。
提出されていたのは、表の帳簿だけだ。 領地収入。 屋敷維持費。 病弱な当主ベルナール卿の療養費。 最低限の社交費。 数件の慈善寄付。 それらは、貴族家の帳簿としては小さく、慎ましく、そして退屈なほど整っていた。 だが、ドロテア・ランズの補助簿に残されていた別名義――ロベール・アルマン。 その名が、退屈な帳簿の下に隠れていたもう一枚の顔を引きずり出した。 北翼の監査室には、夜にもかかわらず灯りがともっていた。 机の上には、ドロテアの補助簿、夫人会別口資金の写し、ヴァレンシュタイン公爵家から夫人会へ流れた寄付記録、そしてベルナール分家の表帳簿が並んでいる。 エレノアは、ロベール・アルマンの名が出る箇所を一つずつ追っていた。 銀貨四十枚。 銀貨春挨拶会の朝、公爵家の庭には、派手な花飾りがなかった。 その代わり、冬を越した枝物が、細い花瓶にすっと挿されていた。 庭師が選んだものだ。 豪華ではない。 けれど、寂しくもなかった。 まだ固い蕾のついた枝。 淡く色づき始めた小花。 香りはほとんどないが、光を受けると枝先が静かに明るく見える。 リリアナは、小広間の入口でそれを見つめていた。「前より、ずっと少ないですね」 隣に立つエレノアが頷く。「ええ」「でも、なくてもいい、とは思わない」「そうね」「少なくても、春っぽいです」「庭師がかなり考えてくれたそうよ」 リリアナは、花瓶の根元に小さな札があることに気づいた。 ――庭枝使用。追加購入なし。庭師作業時間、通常管理内。 思わず苦笑する。「ここまで記録するの?」「庭師に無理をさせていない確認よ」「……大事ですね」 リリアナは、もう一度枝物を見た。 花は減った。 でも、誰かの無償の負担で飾った春ではない。 そのことが、今は少し誇らしかった。 今日、彼女が着ているのは薄桃色のドレスだった。 新しい刺繍は足していない。 胸元のリボンは整えただけ。 髪にはエレノアから借りた小さな銀のピン。 真珠の髪飾りは使わなかった。 鏡で見た時、少しだけ物足りなく感じた。 けれど、見慣れると悪くなかった。 以前より控えめで、少し落ち着いていて、それでもリリアナらしい柔らかさは残っている。
薄桃色のドレスは、思っていたより綺麗なままだった。 衣装箱から出されたそれを見た瞬間、リリアナは少しだけ息を止めた。 春茶会のために仕立てられた、あのドレス。 柔らかな桃色の布。 袖口に並ぶ白い花の刺繍。 裾に控えめに入った淡い銀糸。 当時のリリアナには、世界でいちばん自分に似合う服のように思えた。 いや、正直に言えば、今見ても似合うと思う。 そのことが、少し苦しかった。 嫌いになれたなら楽だった。 このドレスは過剰装飾です。 教育費名目では不適切です。 刺繍追加は赤分類です。 だから、もう見たくありません。 そう言い切れたなら、どれほど簡単だっただろう。 けれど、衣装係のエリスがそっと広げたドレスは、やはり美しかった。 リリアナの肌色に合う柔らかな桃色。 動くたびに春の光を拾う袖口。 母が「まあ、可愛い」と笑った日の記憶。 全部、まだそこにある。 北翼の小衣装室には、エレノア、リリアナ、マルタ、衣装係のエリス、そして記録係として若い女官が一人いた。 本来なら、公爵令嬢のドレス直しに記録係などいない。 だが今回は違う。 春挨拶会で着用する衣装は、王家監督下の支出再整理の一部でもある。 新調しない。 刺繍を足さない。 既存品を補修して使う。 その補修費を記録する。 新たな装飾費を発生させない。 言葉にすると簡単だ。 しかし、目の前にドレスが置かれると、簡単ではなかった。 リリアナは、袖口の刺繍に指先を触れた。「これ、やっぱり綺麗ですね」 声に、少しだけ罪悪感が混ざった。 エレノアは隣で静かに言った。
招待状を出してから三日目の朝、ヴァレンシュタイン公爵家には返事が届き始めた。 早いものは、丁寧だった。 紙も上等で、字も美しい。 ――このたびは春のご挨拶会へのご案内、誠にありがとうございます。謹んで出席いたします。 それだけの、礼儀正しい返事。 だが、すべてがそうではなかった。 北翼の小会議室には、返書が種類ごとに分けられていた。 出席。 欠席。 確認事項あり。 贈答品辞退への問い合わせ。 返礼不要の確認。 そして、ヘルマン監督官が淡々と作った最後の箱。 ――含意あり。 リリアナは、その札を見て首を傾げた。「含意あり?」 エレノアは返書を一通手に取りながら答えた。「そのまま読めば丁寧だけれど、別の意味が含まれている返事よ」「嫌味ってこと?」「大まかには」「含意あり、上品すぎる言い方ですね」 リリアナが思わず言うと、ミリアム夫人が扇を閉じて笑った。「社交界では、嫌味にも上等な紙を使いますのよ」「嫌です……」「慣れすぎても困りますけれど、読めないと刺されますわ」 リリアナは少し身を縮めた。 今日は、返書整理のためにミリアム夫人とデリア夫人も同席している。 春挨拶会は公爵家の行事だが、社交界の反応を読むには、夫人会改革組の目が役に立つ。 ヘルマン監督官は数字と手続きには強いが、貴婦人たちの柔らかな毒には、別種の解釈が必要だった。 デリア夫人が一通の返書を開いた。「こちら、ランズベリー伯爵夫人からです」 彼女は静かに読み上げる。「――このたびは
春の招待状は、いつもなら香りから決まった。 薄い花の香を移した上質な紙。 淡い金で縁取られた封筒。 公爵家の紋章を押した封蝋。 季節の挨拶を飾る、少し大げさな言い回し。 それがヴァレンシュタイン公爵家の春だった。 春の茶会は、公爵家がまだ公爵家であることを王都へ示す場でもあった。 庭の花が咲いた。 新しい菓子が届いた。 娘たちのドレスが整った。 夫人たちが集まり、笑い、噂を交わし、次の縁談や寄付や派閥の空気を探る。 リリアナにとっても、春の茶会は嫌いなものではなかった。 むしろ、好きだった。 自分のために仕立てられたドレスを着て、母に髪を整えてもらい、客人たちに「まあ、リリアナ様、今年もお可愛らしい」と言われる。 その時間は、確かに甘かった。 けれど今年、机の上に置かれている招待状案は、以前のものとはまるで違っていた。 紙は上質だが、飾りはない。 封筒も無地。 香りも移していない。 金の縁取りもない。 そして、招待状の表題にはこうある。 ――ヴァレンシュタイン公爵家 春の小さな挨拶会のご案内。「小さな、って書くんだ……」 リリアナは、机の上の試し刷りを見つめながら呟いた。 北翼の小会議室には、エレノア、リリアナ、ヘルマン監督官、マルタ、財務書記、そして夫人会改革担当としてデリア夫人とミリアム夫人がいた。 本来、公爵家の招待状に夫人会の二人が関わる必要はない。 だが今回は、春の大規模茶会を小規模挨拶会へ変える初回である。 社交界への伝え方を誤れば、「ヴァレンシュタイン家は落ちた」「王家監督下でみすぼらしくなった」「使用人宿舎の暖房費な
使用人宿舎の応急修繕が始まった翌々日、ヴァレンシュタイン公爵家の帳簿に、一本の太い線が引かれた。 暖房費。 薪代、煙道修繕費、窓枠補修費、風除け板、追加毛布、窓布の新調、古毛布の再利用加工費、温度記録用の小さな計測具。 ひとつひとつは、王都の大貴族の支出として見れば、驚くほど大きな額ではない。 だが、それらをまとめて「冬季宿舎安全費」として正式な費目にした時、初めて見えるものがあった。 これまで、その費目は存在していなかった。 薪代は家政費の隅にあった。 修繕費は建物維持費の下にあった。 毛布は備品費に混ざっていた。 使用人宿舎の寒さは、どこか一つの欄にまとまっていなかった。 だから、見えにくかった。 どれも小さな不足として処理され、次の季節へ流され、また冬が来る。 ヘルマン監督官は、机の上に新しい予算表を置いた。「本日は、使用人宿舎冬季安全費の恒常化と、その財源としての王都社交費削減を協議します」 ヴァレンシュタイン公爵家の南側会議室。 かつては茶会前の打ち合わせに使われた部屋である。 今は、帳簿、見積書、修繕計画、過去三年分の社交費一覧が並んでいた。 出席者は、ヘルマン監督官、エレノア、リリアナ、家令代理、財務書記、ハンナ、そして別室から監督官立会いで意見書を提出したセレスティア。 グレゴール公爵本人は出席しない。 当主権限停止中であり、直接の発言は監督官経由に限られている。 ただし、父の所見は机の端に置かれていた。 ――家の顔を守り、家の足元を見なかった。 その一文が、今日の会議の中心にあった。 リリアナは、社交費一覧を見つめていた。 顔色はよくない。 けれど、逃
使用人宿舎の暖房修繕は、三日後に始まった。 決定から着工までが早かったのは、王家監督官ヘルマンが「冬は待ちません」と短く言い切ったからだった。 ヴァレンシュタイン公爵家の王都屋敷は、表から見れば立派だった。 白い石壁。 整えられた庭木。 客を迎える玄関広間には、磨かれた燭台と季節の花。 応接室には厚い絨毯が敷かれ、暖炉の火はいつも美しく整えられていた。 けれど、屋敷の裏へ回ると空気は変わる。 調理場の裏口。 薪置き場。 洗濯場。 馬車小屋へ続く石畳。 そして、そのさらに奥に、使用人たちの宿舎があった。 エレノアは、そこへ足を運んだことがほとんどなかった。 幼い頃、迷い込んだことはある。 侍女にすぐ連れ戻された。 「お嬢様のいらっしゃる場所ではありません」と。 その言葉を、当時のエレノアは深く考えなかった。 自分には自分のいる場所があり、使用人には使用人のいる場所がある。 そういうものだと思っていた。 だが今、その「いらっしゃる場所ではない」と言われてきた場所こそ、父と母が見なかった空白の一つだった。 宿舎は、倒れかけているわけではない。 壁も屋根も、外から見れば保たれている。 だが、近づけばすぐ分かった。 窓枠の隙間。 廊下の床板の軋み。 暖炉の煙道のひび。 寝室へ続く扉の下から入る風。 そして何より、空気が冷たい。 屋敷の表側にある客間の冷たさとは違う。 人が我慢することに慣れた冷たさだった。 エレノアの隣で、リリアナが息を呑んだ。「ここ……同じ屋敷の中なの?」 その声は小さかった







